{"product_id":"ヨ","title":"ヨ","description":"\u003cp class=\"wp-block-paragraph\"\u003e“言葉では尽くせず、意味へ還元されず、それでも確かに立ち現れているもの。\u003cbr\u003eそれは、記号化されながらもなお尽くされず、知覚のうちに立ち現れ、他者として触れ、聖として震えをもたらすものの現れである。”（石川竜一）\u003cbr\u003e\u003cbr\u003e\u003cbr\u003e石川竜一にとって、ポートレートは重要なテーマであり続けてきた。私たちは写真に写る人を見て、その人が誰であるのかを知ろうとする。年齢や性別、装い、表情、生活の痕跡から、その人について何かを読み取り、意味を与えようとする。しかし、そうした言葉や解釈を重ねても、なお残るものがある。細部まで克明に写し出されるほど、その人はむしろ、何者であるかという理解からこぼれ落ちていく。見えているのに、わからない。目の前の人は、自分の理解には回収しきれない他者としてそこにいる。\u003c\/p\u003e\n\u003cp class=\"wp-block-paragraph\"\u003e皮膚の湿度、身体に宿る緊張、筋肉の張り、視線の強さや揺らぎ。光が物に触れ、反射し、カメラへと届く。\u003cbr\u003e写真に定着された物質の質感は、見る者の身体にも働きかける。物質的であると同時に、現象的であること。\u003cbr\u003e客観としてそこにあるものが、見る者の主観に触れ、感覚を生じさせること。\u003c\/p\u003e\n\u003cp class=\"wp-block-paragraph\"\u003e石川はその経験を考えるなかで、主観的に経験される感覚の質「クオリア」へと向かい、さらに、畏怖や魅惑を伴う「聖なるもの」、説明することのできない他者性へと思考を重ねていく。聖性とは、誰かがあらかじめ所有している特別な属性ではない。見ることのなかで、不意に立ち上がる経験の質なのだ。\u003c\/p\u003e\n\u003cp class=\"wp-block-paragraph\"\u003e見られるものと見るもの。物質と感覚。客観と主観。そのあいだで、起きていること。写真に写る身体は、ただ観察される対象なのではなく、知覚の媒体となって見る者の身体へと触れてくる。そこには、言葉によって意味づけられるより前に、確かに現れている何かがある。\u003c\/p\u003e\n\u003cp class=\"wp-block-paragraph\"\u003e石川はそれを「∃」と記し、「よ」と読む。論理学では「存在する」ことを示す記号である「∃」を、石川はここで、「存在」にさえ先立つ「表し難い現れ」へと開いていく。それは何者かという分類からこぼれ落ち、言葉や記号によって尽くされることなく、それでも確かに、こちらに触れてくるものだ。\u003c\/p\u003e\n\u003cp class=\"wp-block-paragraph\"\u003e何が写っているのかではなく、なお、そこにあるもの。『ヨ』は、人を撮り続けてきた石川竜一が、写真に写るものと、それを見る者とのあいだに立ち現れる、名づけることのできないものへと触れようとする一冊である。\u003c\/p\u003e","brand":"PURPLE","offers":[{"title":"Default Title","offer_id":67887531983037,"sku":null,"price":5000.0,"currency_code":"JPY","in_stock":true}],"thumbnail_url":"\/\/cdn.shopify.com\/s\/files\/1\/0614\/5887\/4557\/files\/yo0.png?v=1792746319","url":"https:\/\/purple-kyoto.myshopify.com\/products\/%e3%83%a8","provider":"PURPLE","version":"1.0","type":"link"}